共通教育科目「基礎教養1」の「世界の思想」2007年度1学期水曜4時限

「認識するとはどういうことか?」

                 第13回講義                 

 

 §11 知識の社会性 知識の個人主義を超えて

 

1.行為の説明についての論争

伝統的な行為の理解は、現代では「行為の因果説」と呼ばれている。これは、意志(意思)が行為の原因となっているという考えである。心と身体の二元論を採用するならば、心は、身体の運動の原因になっていると考えることになるだろう。しかし、唯物論を採用したとしても、行為の因果説を否定することになるとは限らない。なぜなら、意志(意思)=ある脳状態が身体運動の原因になっていると考えることが出来るからである。

 アンスコムは『インテンション』において、「行為の因果説」を批判して、「行為の反因果説」を主張する。(この論争は、現在継続中である。)

「出来事Cが出来事Eの原因であるとは、Cに類似的な出来事が常にEに類似的な出来事に先行しているということが観察される場合に初めて確立される。」(管、74)しかし、意志(意思)が、常に行為と独立に行為に先立って存在することが観察できるとは限らない。そこで、アンスコムは「意思」という言葉を用いずに、「意思行為」を定義しようとする。

 

 

*意志行為によって、行為を次のように定義する

<ある動作を意思行為として捉えうるような、その動作の記述が少なくとも一つあるならば、その動作は彼のなす行為である>

*動作を知っていることが、意思行為であるための必要条件である。しかし、それは十分条件ではない。なぜなら、腸の蠕動を知っていても、それは意思行為ではない。

*動作についての知識は

  観察による知識

  観察によらない知識

に区別される。

*しかし、観察によらない知識もまだ、意思行為であるための十分条件ではない。

 

 

2、人間の振る舞い(動作、動き)の分類

 アンスコムは、人間の振る舞いを次のように分類する(Anscomb, 前掲書、§16、菅、『実践的知識の構造』勁草書房、p.81

1<知らない>(板を鋸で挽いているときに、大きな音を立てて隣人に迷惑をかける

        栄養剤と間違えて、風邪薬を飲んでいる)

2<(ある記述の下において)知っている>

  21<観察に基づいてはじめて知る(腸の蠕動、貧乏ゆすり)>

  22<観察に基づかないで知る>

     (自分の四肢の位置や状態の知識は、動作ではないが、

観察に基づかない知識である。)

221<その動作が何故生じるか観察に基づいて知る(非自発的行為)>           (医者がひざを叩いたので、ひざが上がる。くしゃみ、あくび)  

222<その動作が何故生じるか観察に基づかないで知る(心的因果性)>

      2221<心的原因>

       「窓から顔が突然ぬっと現れてびっくりして飛び上がったのだ」

      2222<動機をもつ行為、意図的行為>

   

 

 

3.「実践的知識」の説明

「何をしているの」と問われたならば、我々は即座に答えることが出来る。そのような行為の中には、さらに「なぜそうするのか」と問われて、即座に答えられる行為がある。この後者の行為の一部が、通常「意図的行為」と呼ばれているものである。

 

「何をしているの」と問われて、例えば即座に「私はコーヒーを淹れています」と答えるときのこの答えを、アンスコムは「実践的知識」と呼ぶ。彼女によれば、これらの知識は観察によらない知識である。そして、付け加えるならば、推論にもよらない知識である。

 

実践的知識が観察によらないということを、どのようにして証明できるだろうか。観察による知識は、外的感覚による知識と、内観(反省)による知識に分けられる。

 

確かに、私が何をしているかを知るために、私の手足を見ることはない。しかし、私の手足の位置を感じて、判断しているということはないだろうか。おそらくそのようなことはないだろう。なぜなら、私の手足の位置を感じたとしても、それだけでは私がコーヒーを淹れていることは解からないからである。 

内観についてはどうだろうか。私が、コーヒーを淹れようという意図を持っており、そのことを内観によって知り、その内観に基づいて、答えるということはないだろうか。もし実践的知識が内観によるのだとすると、実践的知識は、行為を記述するものであることになる。しかし、実践的知識は、行為を記述するのではなくて、それによって行為が可能になるものであり、行為の構成的な要素の一部なのである。

 

注:行為の構成要素の一部であるという実践的知識のこの特徴は、オースティンのいう「行為遂行型発話」の特徴に少し似ている。行為遂行型発話では、例えば、「私がコーヒーを淹れます」という約束の発話によって、約束が成立する。これとよく似て、「私はコーヒーを淹れている」という実践的知識の発話(多くの場合には内言)によって、私の振る舞いは意図的行為になる。行為遂行型発話は、話し手についての記述ではないので真/偽の区別を持たず、適/不適の区別を持つものである。ただし、行為遂行型発話の中でも、宣言の発話は特殊であり、真/偽の区別を持ちうる。例えば、ある人に「有罪」と宣言することによって、彼は有罪になるのであるが、その宣言が間違っていることもあり得るだろう。この点で、実践的知識の発話は、行為遂行型発話の中でもとりわけ宣言の発話に似ているように思われる。

 

4、「我々の実践的知識」について

 「何をしているの」と問われて「私はチェスをしています」と答えることがあるのと同様に、「君たちは何をしているの」と問われて、「我々はチェスをしています」と答えるときがあるだろう。この場合にも、我々は「私はチェスをしています」という実践的知識の場合と同様に、観察によらずに即座に答えることができる。つまり、「我々」を主語とする実践的知識もあるように思われる。

これに対しては次の反論が考えられる。「我々はチェスをしています」という返答を発話しているのは、一人の人間である。つまり、ここでは<我々>が答えているのではなくて、一人の人間が、<我々>が行っていることを記述しているのである。

この反論に対しては次のように答えたい。これが実践的知識であるとするならば、これは<我々>についての記述ではない。もし「私はチェスをしています」という答は記述でなくて、「我々がチェスをしています」という答えは記述であるとすれば、両者の間には非常に大きな質的な区別があることになるが、そのような大きな差異があるようには思えないのである。

 

「我々はチェスをしています」という知が、「我々の実践的知識」であり、話し手による「我々」についての記述ではないとすると、この知は個人の知ではない。「我々の実践的知識」は「我々の共有知」である。

 

aさんとbさんが、「君たちは何をしているの」と問われて、aさんが「我々はチェスをしています」と答えるとき、この返答が実践的知識であるとしよう。ここでaとbが「我々はチェスをしています」という一つの知を分け持っているのだとすると、aは、「我々」を代表してこの問いに答えているのだと考えられる。「我々」は代表されることによって成立するのだと考えられる。

このように考えるとき、実は「私」を主語とする実践的知識でも、発話者が、ある人物「私」を代表していると考えることが出来る。この人物はあらかじめ存在していて指示されるのではなくて、代表されるべき「私」は、代表されることによって、成立するのである。つまり、「私」の成立の仕方と「我々」の成立の仕方は同じである。

 

5「我々の実践的知識」の背景知

 他の知と同様に、実践的知識もまた、他の多くの知識とともに作る網目(web)のなかで成立している。我々が実践的知識に注目するときには、網目を作るその他の知識を「実践的知識の背景知」と呼ぶことが出来るだろう。

「私はコーヒーを淹れています」は、「これはコーヒーの粉である」「ここにお湯がある」「私はコーヒーを淹れることが出来る」「私は存在する」などの背景知を伴っている。

これと同様に「我々の実践的知識」もまた、背景知をもつだろう。「僕達はサッカーをしています」は、「あれがゴールポストである」「これがサッカーボールである」「ここは運動場である」「我々は存在する」などの背景知を伴う。そして「我々の実践的知識」が共有知であるとすれば、これらの背景知もまた共有知である。

例えば今仮に、「君たちは何をしているのか」と問われて「僕達は野球をしています」と答え、「君は何をしているのか」と問われて、「ぼくはレフトを守っています」と答え、「彼は何をしているのか」と問われて、「彼はセンターを守っています」と答えるとしよう。ここで、「僕達は野球をしています」は「僕達」の実践的知識であり、「僕はレフトを守っています」は「僕」の実践的知識である。この二つが、実践的知識であり、観察によらない知識であるとき、「彼はセンターを守っています」もまた観察によらない実践的知識であるだろう。それだけでなく、「僕達が野球をしている」が「僕達」の共有知であるのならば、「僕がレフトを守っており、彼がセンターを守っている」もまた、「僕達」の共有知である。つまり、「僕はレフトを守っています」「彼はセンターを守っています」は「僕達」の共有知である。ここに共有知の拡張の可能性がある。

 

6.展望

野球という分業が、「我々の実践的知識」や「我々の共有知」によって成り立つように、認識の社会的分業もまた、「我々の実践的知識」や「我々の共有知」によって成り立っている。

そして、おそらく、個人の自己意識や個人の知識は、発達の最初の段階では、「私たちの実践的知識」、「私たちの共有知」の一部として成立したのだと思われる




これで、一学期の講義は終わりです。